社会科学

はじめに

科学はひとつの認識体系であるにすぎず、その他の認識体系より無前提に優位であるというわけではない。しかし、社会学的方法論は科学的認識方法に依拠するのであって、科学の基本を知り、その限界と有用性を再確認することは、社会学という営みを進める上で不可欠の条件となるのである。

社会科学

科学の相対的な位置づけに言及したE. エヴァンスプリチャードは、

「われわれが降雨の原因を気象学に求め、未開人は神や精霊や魔術が雨をもたらすと信じていたとしても、そのことは、我々の頭脳が未開人とは異なった働きをしているということを示すものではない。このことをより、われわれが未開人よりも「より論理的に考えている」ことにはならないし、「より論理的に考える」ということでなんらかの遺伝学上の精神的優位性を示唆するのであれば、なおさら否である。降雨という現象の原因を物理的に求めたからといって、それがより上級の知性を示しているということにはならない。私の知っている降雨の物理的原因に関する結論は、自分で観察したり、推察したりして得たものではないし、実際、私は降雨の気象学的な発生過程についてはほとんど何も知らない。私はただ、雨の自然現象の中にその原因があってもたらされるのだという、私の暮らす社会の中では誰もが受け入れている考え方を受け入れているにすぎない。この考え方は、私が生きている社会に備わった文化の一部を形成しているものであり、私がその社会に生れ落ちるずっと以前から変わらずそうであったのであって、そういう文化を学び取るのに必要な言語上の能力さえあれば、そうした考え方はごく自然に社会の成員の中に入ってくるものなのである。同様に、ある未開人が一定の条件の下では降雨が魔術の影響を受けると信じたとしても、そのことをもって彼が劣等な知性の持ち主であるといういわれはないはずである。彼らは、自らの観察と推察によってそのような考え方を形成したわけではなく、かれがそこに生れ落ちた社会の文化的伝統を受け入れたことによってそのように信じるにいたったのである。彼も私も、自分を取り巻く社会から受け取る思考の方の中で考えているという点において、まったく同じなのである。」
Quoted by Peter Winch, “Understanding A Primitive Society,” American Philosophical Quarterly, Vol. 1, No. 4, Oct. 1964, pp.307.

と指摘し、それに続き、エヴァンスプリチャードは前提とそこからの推論との間に論理的な関係が保たれていることは科学的であることの必要条件にすぎず、科学的であるためには、その前提自体の正しさが客観的現実に合致していなければならないと主張するのに対して、ウィンチは、「科学的」ということを「客観的現実に一致する」という点から特徴付けようとするこうした考え方を誤りであるとして斥けるのである。ウィンチは、科学には、科学の現実があり、科学以外の語り口(たとえば宗教)にはまたそれなりの現実があるのであって、それぞれの語り口においてそれぞれの言語が現実と非現実とをどのように区別しているか、その働き方の様子を理解することが必要になる、と考えた。

「あるひとつの科学的仮説が現実に合致するかどうかを問題にすることはできる。観察と実験によってその仮説を検証すればよいのである。実験方法および仮説を構成する理論的概念が確定されれば、その仮説の真偽は、私(を含めて誰であれ)の個人的な思い入れからは独立した何者かに照らして明らかとなる。しかし、実験によって明らかにされるデータの一般的性質は、そこで採用された実験方法の中に組み込まれた基準の観点からのみ特定されうるのであって、その基準(の意味するところ)は、ただそうした科学の方法に慣れ親しんだものにしか理解することができない。科学音痴は、いくらその実験の現場に立ち会って「観察」していたとしても、実験の結果を、検証すべき仮説にとって適切な概念(用語)を用いて語ることはできないのである。そして「実験の結果」としてわれわれが語りうることは、ただそのような概念(用語)を通じてのみ意味をなすことになるのである。」
Peter Winch, “Understanding A Primitive Society,” American Philosophical Quarterly, Vol. 1, No. 4, Oct. 1964, pp.309.

要するに、人間の観念と、人間を離れたところに超然とした現実があって、その両者を結びつけるものが科学的方法の基準であると考えるエヴァンスプリチャード流のイメージではなく、科学をそのひとつとして、いくつかの語り口にそれぞれ世界・現実があるというのが、ウィンチの考え方である。そして、それぞれの世界・現実は、そこにおいて言語がいかに用いられるかというその使われ方を基礎として形をなすことになるのである。

竹田青嗣は現象学の観点からこのことを次のように述べている。

「・・・フッサールの用語で端的に言うと、わたくしたちは意見の違いを互いに交換し合うとき、必ず確信の像(超越)の場面から遡って、その像が成立してきた自己の<内在>に向かって相互に問いかけているということになる。しかし<内在>は、私たちが言葉とともに織り上げている実感的な生の意識だから、一方で<他人>との間の相互的な確かめの契機を含んでいると同時に、それ自身の固有のニュアンスを取り払うことができない。・・・だからそれをあえて「一致」させるには、一定の「公理」がどうしても必要とするのである。
たとえば自然科学、物理学、化学などの客観科学の「公理」は、いつでも誰でもが自然を人間のために最も効率的に利用できるように秩序としてそれを体系化する、という要請である。科学が記述する仮説(超越)の正しさは、この「公理」によってのみ確かめられるのであり、決して事物の客観秩序によって確かめられるのではない。」
竹田青嗣『現代思想の冒険』毎日新聞社(1987).

つまり、科学には科学の言葉(それをつきつめたものがここで言う「公理」となる)があるということなのである。

観念的論理構成−科学の思考方法

対象を理解するとは、対象にそのような特徴をもたらすもう一つの別の対象の特徴を特定し(記述)、二つの対象間の共変関係を刷出することである(説明)。そして、現象を説明するとは、その現象をDV(従属変数:説明される対象となる変数)に対するIV(独立変数:従属変数が示す変化を説明する変数)を想定して、そのIV-DV間の相関関係(ないし因果関係)を示して見せることにほかならない。


出典:和田安弘『法と紛争の社会学―法社会学入門―』世界思想社(1994)

IV-DV間の相関関係を命題という。命題とは、二つの概念の間に存在する論理的関係を言語化したものである。命題を検証するため、概念を経験世界のもの・ことに翻訳する。この作業を操作かといい、「仮説」化する。そして、経験的データにより検証するのである(演繹)。これによって思考の範囲は狭まるが、より確実な知識となる。逆に、抽象度の高い「命題」へと昇華させることにより、思考の範囲は広がり、認識の度合いは深まっていく(帰納)。

現実的手法−科学の実践

経験的研究方法の種類には

がある。

実験的方法

命題から仮説を導き、その仮説を検証する方法は、IV-DVの間の因果関係があることを確認するための基準は、次の三つの条件がすべて満たされることである。

  1. 時間的順序(IVの変化がDVの変化に先行すること)
  2. 共変(IVの変化とDVの変化が対応すること)
  3. 統制(IV以外の潜在的独立変数がDVの変化をもたらしたのではないこと)

この「因果の三条件」を満たしているか否かを調べる方法が、仮説検証の方法である。この方法の中でもっとも完璧で、他の方法について考察するときのモデルとなるのが、「実験」又は「実験デザイン」と呼ばれるものである。

  1. 考察対象を、両群はその構成(仮説に影響を与えるであろう要因はもちろん、それ以外の要因についても)において、相互に等価となるように「実験群(EG)」と「統制群(CG)」に分ける。
  2. 両群への働きかけは、ある一点を除いてすべてが同じようになされるが、その一点において実験群にはIVに相当する刺激(S)が与えられ、統制群にはIVを含まない擬似刺激(PS)が与えられる。
  3. 刺激が与えられる前後の従属変数の値を測定してその変化の様子を調べ、両群に測定値の間に差異があるとすれば、論理的に言って、IVとして与えられた刺激による因果関係を証明できたことになる。

これを図式化すると

実験群(EG):E・t1―→ST―→E・t2(ただし、E・tn:tn時点における実験群のDVの測定値)
統制群(CG):C・t1―→PST―→C・t2(ただし、C・tn:tn時点における統制群のDVの測定値)
EGの変化量(E0)=E・t2―E・t1=(IVの効果)+(Tの効果)+(その他の変数の効果)
CGの変化量(C0)=C・t2―C・t1=(Tの効果)+(その他の変数の効果)
∴両群間の差異(D)=E0−C0=(IVの効果)

上述の「実験」、社会学的に見ると、以下の現実的制約がある。

準実験

現実的制約の中で、実験の厳格な要件を緩和した形で適用した手法をとる。比較的簡単な準実験としては、統制群を設けないでE・t1とE・t2の変化だけを見るデザインである。そこに変化があれば、それは独立変数を含んだ刺激が与えられた結果、その効果として生じたものと考えるわけである。

もうひとつの現実的デザインは、統制郡は用いるが刺激を与える以前のDV値(E・t1及びC・t1)の測定を省くタイプのものである。この構成では、完全な実験デザインとは違って変化の量や態様を知ることはできないが、「因果関係の三条件」はすべて満たされることになるので、完全な実験デザインを用いる場合とほぼ同様の成果を上げることができる。もちろん、このようなデザインの研究によって解明できることには限界があるが、変数が特定された状況の下では、仮説検定の方法として有効に機能するといえる。

定量的方法(量的方法)=サーベイ・リサーチ

これは、アンケート調査を思い浮かべると良い。定量的方法は、実験という構成をとることなく「因果の三条件」の「統制」を満たすために、事前の「統制」に変えて、事後の統計的処理を用いた論理操作により「統制」の効果をえて、実験と並ぶ論理的に正しい仮説検証方法となった。この画期的な統計的処理の技法は、一般に「精密化」と呼ばれるものである。精密化は第三変数を一定とした場合における、IV-DV関係がどのようになるか、表面上の関係の奥に隠された真の姿を見ようとするものである。第三変数を一定にするということはそれ自体が「統制」されるということであるから、その第三変数は統制変数(CV)という位置づけが与えられ、このようにして因果の三条件の「統制」を、データを収集した後から統計的な処理を施すことによって満足させるのである。

精密化についての要点をまとめると

  1. 精密化するということは、作業手順としては、統制変数として選択した第三変数のカテゴリーごとに細表を作り、その際表に現れる部分相関を得ることである。
  2. その部分相関が示すパターンには、およそ5つの型がある。

定性的方法(質的方法)=フィールドワーク(フィールド・リサーチ)

実験と調査が「現象理解のための作業サイクル」の中で演繹の流れであるのに対して、定性的方法は帰納の流れに沿って、データを下に経験的一般化を行い、仮説を形成し、さらに命題・理論を構築することを展望する。代表的なフィールド・リサーチの技法は「参与観察」である。

質的調査は、依拠すべき理論(現象理解のための枠組み)が存在しない研究対象について、そのような理論へと構成されていくはずの知見(質的データ)を収集し、それを一般化・抽象化していく作業のことを指している。質的調査を進めるためには、まず有効なインフォーマントが必要になる。インフォーマントとは、基本的にはその研究対象となる世界の人間であり、社会・集団の言語ゲームのメンバーであり、研究者とも抽象的なコミュニケーションできるものを指す。インフォーマントを橋渡しとすることで研究対象との接触から、さらに一歩進んだところに、参与観察がある。研究者自身が、研究対象である社会・集団の一員となって行動しながら、そこで行われている言語ゲームを身につけていく方法である。

しかし、これは想像以上に困難な作業であり、研究者がその社会・集団に加わることにより、研究対象である社会成員の行動はその影響を受けて受容し、また、研究者はその社会・集団の一員として社会・集団にどうかしてしまうのである。従って、「参加」しながら「観察」するといこと、インサイダーでありながら、アウトサイダーであり続けること、この二律背反と克服することが参与観察の課題となる。この難題を解決するのによく行われている解決方法には下記のようなものがある。

このような状況の中で収集される「観察」データは、その分析に関してもいくつかの問題がある。

  1. そのデータをどこまで一般化することができるのかには論理的制約がある
  2. 観察データから変数値を測定することは原則的には不可能である
  3. 観察データから因果関係(ないし相関関係)の推論を行うこともできない。

膨大なデータの山からどのように一般化を行い、結論を導くか、またその結論の導出の過程を説得的に提示するにはどのようにすればよいか、という問題があり、これはまさに研究者の力量、その職人芸的な才覚に負うところが大きい問題である。考えられるいくつかの戦略としては、下記のようなものがある。

参考文献

history of update
ver.1.00/2004.02.08 opened to the public.

「知の経営」推薦図書


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